おでかけ日記・鞆の浦
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2005/08/07・・鞆の浦歴史民俗資料館へ

★写真はクリックで拡大

福山に引っ越してきてからしばらく経つが、鞆の浦には初めて行った。
駅まで電車で出て、そこからバスに30分ほど揺られる。
バスに乗っていたおじいさんを見て、「あっ、この人同じ場所へ行きそう」と思ったら案の定鞆の浦で下車。
これは間違いない、と少しうしろをついていったらほんとに辿りつけた・・(笑)

歴史民族資料館手前の急勾配の坂/クリックで拡大

建物はけっこうな急勾配の坂の上にあって、これはお年寄りにはキツイだろうな〜と思われたのだが、そのへん大丈夫なんだろうか。

目的は、『箱館における中村政憲と榎本武揚』と題された講演会。
紹介の記述には、
・中村政憲・・・鞆の浦の保命酒屋・中村家当主
・榎本武揚・・・父親は神辺町出身

共に接点のない備後の海辺の鞆と内陸部の神辺の2人だが、幕末の動乱期、蝦夷地という新天地・箱館へ突き進んだ一人の商人と一人の軍人。青野春水先生が新しい切り口で、この二人を通して備後の風土や幕末の様子を探ります。
なお、現在、中村家文書を調査中で、その中から「箱館絵図」などが見つかっています。


とある。
神辺といえば福山から程近い地域、このへんが榎本のお父さんの出身地(後述)なのか・・へー・・・おもしろいな。
と、にわかに興味を持ったので出かけてみることにしたのだった。

すこし早めに着いたのですんなり着席できたが、始まる頃には予備の椅子も出されるほど場内はびっしりに。
地元の方々が多く、殆んどが顔見知りだったようでわたしのようなフリーな(?)立場の者はあまりいなかったみたい。
基本的には、上にある鞆の中村家当主・中村政憲に関することが半分以上。(生い立ちから交友関係、商売の販路拡大にいたる経緯など)
面白いな、とおもったところだけかいつまんで書いてみます。

初代中村吉兵衛が醸造・販売していた保命酒については→こちら
(備後美術の紹介ページですが、簡潔な説明があり特定の蔵元に偏っていないので選びました)

中村家の蝦夷地進出の経緯〜

保命酒で名を馳せた中村家は、大消費地・江戸で商売をすることについて藩に許可を求めるも否定的な返事しか返ってこなかった。そのことが中村政憲の目を蝦夷地へと向けさせた。
ただ、このときなぜか箱館=蝦夷ではなく、奥州の延長だと考えていたようだ?という話が面白かった。
中村家から発見された箱館地図も、箱館の湾がこちら側にあって大町通りが見え、その付近に称名寺などの名前が。(称名寺といえば高田屋嘉兵衛、土方歳三、新選組隊士の供養碑があることで有名だが、ここにこの政憲の墓もあるのだという)
地図にはそのほか、五稜郭に移る前の箱館奉行所(現在の基坂頂上付近)も描かれていた。五稜郭は湾のぐるっと手前側のため、載っていない。地図が描かれた当時は箱館山のふもとのほうが繁華街だったため、地図としてはこれは当たり前だろうなあ、という気がした。
(函館の繁華街は港付近から始まってだんだん北側へ中心が移っていって今日に至ってるハズ)

政憲は嘉永元年、約一ヶ月かけて箱館に上陸、知人の蛯子長兵衛家に滞在したのち、会所町に家を借りて移り住む。
(会所町とはどこなのか説明がなかったので調べてみたら、今でいう八幡坂の上のほうのことらしい)

販売の拡大に努力はしたが市場開拓方法や気候風土の違いに思うように行かないまま、上陸の翌年4月に政憲は病床に就き、回復せず7月没。
たったの一年で亡くなったとはなんとお気の毒な・・
その後遺骸は浄玄寺(現在の東本願寺別院)に、墓石は蛯子氏の菩提寺である称名寺へ建立したとのこと。

蛯子家については、
〜蛯子家も旧家で江戸時代初期から箱館に居を構えたという(「蝦夷實地檢考禄(抄)」)。町年寄で、家格は松前藩士席先手組(略)。→(参照)
とあり、当時の名家だったことをうかがわせる。
また、こんな記述も。
山中には三十三観音の石像か点在しています。これは1834年(天保5)に称名寺(現・船見町)の僧と旧家の蛯子長兵衛が協力して西国の霊場の土を少しずつ移し、そこに四国の花崗岩を大阪の仏師に刻ませた観音像を、高田屋の船で運んで建立したものです。→(参照)
建物の眼前に広がる景色/クリックで拡大鞆城跡の説明/クリックで拡大


以上、興味を覚えた部分に少々を付け加えてのまとめ。

個人的には政憲が箱館での暮らしぶりや商売のようすとか、この蛯子氏との関係などをもっと知りたかったが・・それは函館行って自分で調べるべきなのかも。

すこし時間が足りなくなってしまったようで、このあとの箱館における武揚の部分が駆け足気味だったのが残念。
(榎本武揚の父、榎本園兵衛武規(旧名箱田良助)は広島県神辺町箱田の出身)

先生いわく、この政憲がもう少し長生きしていれば箱館で榎本と出会うこともあったのではないか・・と。
なるほど。

福山藩は新政府側の立場だったので、もし実現したら敵対する間柄となったかも?という気もするけれど。


参考にさせていただいたページ(上記リンク以外):

”榎本武揚 神辺 の検索結果”

幕末の函館地図発見 福山市鞆町

続・福山市のはなし〜太田家住宅と保命酒−井伊直弼の登場から八月十八日の政変まで

はこだての歴史byアソートアーツ工房


函館百珍と函館史実「贈従五位小林重吉翁と其祖先」
はこだて人物誌 小林重吉

さいごの2件は中村家・榎本と直接の関係はないが、”備後福山藩の土卒を寄宿させたりして陰に陽に官軍に応援”(リンク上)”明治元年町年寄を命じられ、また箱館戦争で旧幕府脱走軍が港内に敷設した鋼索を自己所有の船を使用して排除した。更に箱館山裏の寒川から新政府軍を誘導して奇襲を成功させ、勝利の一端を担った”(リンク下)、という記述がある。
(下にはさらに、蛯子友輔という、蛯子家の人物の名前も見える)

さらに逸脱するが、→こちらには当時の箱館が、国内情勢に揺れながらもかなり広範囲に大規模な貿易をしていたことが伺える文書が。 ぐーぐるのキャッシュしか探せなかったのでホントはリンクしちゃマズイのかな、とも思いますが・・面白いので興味あるかたは読んでみてください。
(消えたらごめんなさい)